ヘッセ「荒野のおおかみ」 ≪長文≫ [本]

先日、かさぶらんか さんの記事のコメントのなかでヘッセの話題が持ち上がって、思わずボクは青春時代にヘッセを耽読していた頃を思い出した。

ボクは関西のメーカーに就職して間もなく東京転勤になった。せっかく大阪で友人と立ち上げた市民オケにも別れを告げて、馴染みのない東京に出てきた。
今から思えば社会人としては何にもわかっていない「小僧」であったろうが、一人でポツンと電気部品の試作・実験に明け暮れ、職場の人間関係には馴染めないで孤立していた。

そんな当時ボクの心の支えになっていたのが、読書と音楽であった。

インターネットなどなかったから、休日は神保町の書店街で過ごすのが楽しみだった。学生の頃から馴染んでいたヘッセやユング、音楽書などを買い漁っていた。

音楽はどちらかというと「聴く」よりは「弾く」ほうが好きだったので、転勤直後に入れそうなアマオケを探した。雑誌「音楽の友」の募集広告を見て、カタチばかりのオーディションを受けて、アマチュア・オーケストラ「東京ロイヤルフィルハーモニーオーケストラ」に入団した。
50人くらいの団員数、トロンボーン・チューバは入れない方針の二管編成オーケストラで、ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンなどの古典派音楽をメインにし、音楽監督・常任指揮者は置かずに団員が自発的に運営するポリシーのアマオケであった。

ここでの音楽経験によってボクの音楽の嗜好が固められて現在に到っている。
残念ながらこのアマオケは後に解散してしまったが、ボクの青春時代の思い出としてずっと心の中に残っている。
アマオケなので、ただ合奏練習して演奏会に臨むだけではなく、たくさんの雑用、準備、手配、お金の遣り繰りなどすべて自分たちで分担して運営していた。
人との交渉事が苦手なボクは楽譜の手配や配布資料の準備、パーティーのときは会場の飾りつけなどを率先してやっていた。

そうして回ってきた仕事の1つが、機関誌「カフェ・ロイヤル」の編集・発行であった。


機関誌「カフェ・ロイヤル」創刊号

その創刊号を膨らませるのに代表の抱負やコンマスの思い出話の他に何かネタをと思って書いたのが、ドイツの作家・詩人のヘルマン・ヘッセに関する駄文である。
内面的にはどこか尖がっていた当時のボクが、クソ生意気に知ったかぶりや受け売りでムキになって書いていたようだ。
それでも、オケのメンバーは、モーツァルトに傾倒して大編成のロマン派音楽を避けていたような人が多かったので、小難しいゴタクを並べたような青臭い記事でも評価してくれた。

テーマとして取り上げた映画「ステッペンウルフ/荒野の狼」は現在は国内でDVD販売・レンタルされていないようである。Allcinemaのサイトではロクな記事が出ていない。
Goo映画ではまだまともに取り上げられている。

オリジナルの文章は、縦書きのワープロ書きで改行が少なくブログ向けではないが、引用の注釈以外はほとんどそのまま掲載する。


           *       *       *


ヘルマン・ヘッセの憧れと混沌の世界
             ― 映画「ステッペンウルフ」を観て ―


  「荒野のおおかみ」に到るまで

 恋愛のことを語るとなると ―― この点で私は生涯、少年の域を脱しなかった。私にとって女性に対する愛は常に、心清める思慕であった。
(「ヘッセ全集1 郷愁」高橋健二訳 新潮社 1982年より「郷愁」P.23)

 ヘッセの書いたこの一文は何度反すうしてみても、甘美な気分、憧れの気持ちを呼び醒まさずにはいない。ここに表されているのは少年時代の初恋の感情であり、その背景として物心つき始めたときの世間に対する好奇心や、将来に対する漠然とした不安と理想主義的な潔癖さなどの入り混じった心理がある。

 「郷愁」(”Peter Camenzind” 1904)、「車輪の下」(”Unterm Rad” 1906)等の作品でヘッセはこのように多感で傷つき易い少年の心を描いた。一般にヘッセに対して抱くのはこのような叙情派作家としてのイメージであると思う。しかし、ここで描かれているのはヘッセ自らの少年時代であって、いわばエリートコースから逸脱せざるを得なかった少年の屈折した内面であった。彼は自殺未遂を繰り返すような極度に神経症的で、一方詩人を夢見るロマンティックな少年であった。ここにアウトサイダーしてのヘッセの原点があった。

 その後は、インドへの憧れを主題にしたものや、西欧の没落感を踏まえて個人の精神的破綻を追及した作品が多く書かれた。第1次世界大戦中は、平和主義を唱えたため、ドイツで売国奴のように非難攻撃される。一方、妻の精神病が悪化、ヘッセ自身もノイローゼで苦しむ、こうして公私両面にわたる辛苦が、ヘッセをして心の拠りどころを求める道程へと向かわせしめ、ユング的な内面世界の追求者となったのである。ここで「デミアン」(”Demian” 1919)、「シッダールタ」(”Sidhartha” 1922)、「荒野のおおかみ」(”Der Steppenwolf” 1927)と、中期の三部作といわれる作品が著された。


  荒野のおおかみ

 「荒野のおおかみ」とは、主人公のハリー・ハラーが自分自身を蔑称したものである。ハリーは非市民的な知識人であり、自己軽蔑的なペシミズムに囚われている。文学ではゲーテやノヴァーリスやドストエフスキーなどに精神的関心を強く抱いており、音楽ではモーツァルトやヘンデルを好む。「私の青春の神であり、私の愛と尊敬の終生の目標であるモーツァルト」なのであって、モーツァルトは彼にとって精神的な永遠の美しさの象徴である。ハリーは、自分は精神病であると思って自虐的になっており、五十歳の誕生日が来たら自殺しようと決心していた。

 ハリーは「魔術劇場 ―― だれでもの入場はお断り」「入場は ―― 狂人だけ!」という看板を幻影のように見た。彼は魔術劇場を求めて歩き回り、その途中「無政府主義者的夜の楽しみ!魔術劇場!入場は・・・・・・お断り・・・・・・」というプラカードを持った男から「荒野のおおかみについての論文、だれでもが読むものにあらず」という題の小冊子を手渡される。このなかでハリーについて客観的に論述してあった。彼が荒野のおおかみ的性質と、人間的な性質の二面性を併せ持った人間であること、自殺者としてのハリー、彼の非市民性(アウトサイダーとしての性質)等々、ハリーの自覚症状を分析する。次にハリーの精神病、自殺願望、自己軽蔑の態度をより広い視野から否定し、「人間はけっして固定した永続的な形体ではない、人間はむしろ一つの試み、過渡状態である。自然と精神とのあいだの狭い危険な橋にほかならない」と、肯定的な人間観を訴える。これはハリーが孤立感からの解放へと向かうきっかけとなった。

 彼は自殺しようとしてしきれなかった晩、うろつき回って一軒のレストランに入る。そこで不思議な少女ヘルミーネに出会う。彼女もまた厭世的、悦楽的に生きている娼婦であるが、ボーイッシュな清純な魅力を持ち、聡明である。ヘルミーネはハリーの魂の導き手となって様々な命令を下すが、最後には自分を殺して欲しいという。彼女はハリーにダンスをレッスンし、ジャズに親しませる。ジャズバンドでサックスを吹く青年パブロや、ハリーの恋の相手に官能的なマリアを紹介する。こうしてマリアとの愛と、それを支えるヘルミーネによって彼はいっときの幸福に浸る。

 仮想カーニバルの晩、ハリーはマリアに別れを告げ、本当に求めるヘルミーネの姿を追った。彼女と踊り明かした後、ヘルミーネとパブロによって魔術劇場に案内される。ここでハリーは様々な幻覚を体験する。

 一つは、戦場で自動車狩りが行われている場面、これは「ブリキの安物文明世界を全面的に破壊する道を開くべく努力している戦争」であった。次に、自分の人格が無数の将棋のこまとなり、将棋さしが様々な局面を随意に形作るさまを見る。サーカスで人間使いのおおかみによって猛獣のように扱われる人間ハリー。少年時代に遡り、初恋の少女と過ごす平穏なひととき。過去のすべての女性遍歴。そしていよいよ彼岸の世界に辿りつく。「ドン・ジョバンニ」の音楽が流れるなか、モーツァルトに出会う。モーツァルトは指揮して月や星を操っている。一方、下界の世界ではブラームスが数万人の黒衣の男の大きな列 ―― ブラームスの総譜(スコア)の中で無用だとされたような声部や音符の演奏者 ―― をひきずり、救いを求めている絶望的な光景が見える。ワグナーも同様に荷やっかいな連中がすがりつくなか、ぐったり足をひきずって歩いている。モーツァルトは言う

「あまりに楽器を用いすぎ、あまりに材料が浪費されすぎている」、「楽器を持ちすぎるのは(中略)ワグナーの個人的欠点でもブラームスの個人的欠点でもない。その時代の誤りだったのだ」。
(「ヘッセ全集7 シッダールタ」高橋健二訳 新潮社 1982年より「荒野のおおかみ」P.258)

 こうした混沌とした幻想の後、ナイフを手にしたハリーはヘルミーネを殺す。やがてハリーの死刑執行となる。「ユーモアを解せぬ態度で魔術劇場を自殺期間として利用する意図を示した」罪状でハリーは永久に生きる罰に処せられ、一度徹底的に笑いものにされるという罰を受け、裁判の臨席者全員が高笑いをする。こうして絶望から自殺の試みに始まったハリーの冒険は、生の肯定に終わる。


  映画「ステッペンウルフ」

 「荒野のおおかみ」はフレッド・ハインズ監督・脚本で映画化された(1974年 アメリカ・スイス合作)。これが渋谷パルコ劇場のナイトシアターで7月18日よりロードショー後悔される。これのプレミア上映を観てきた。

 果たして映画化できるような作品だろうかと疑問であったが、思ったより原作に忠実で、難解な原作がストーリーのうえではわかり易くなっていた。

 主演のマックス・フォン・シドー(ハリー・ハラー)とドミニク・サンダ(ヘルミーネ)は好演。導入部あたりのハリーの神経症的気分がよく出ている。適度に暗く怪奇的で不条理な雰囲気が立ちこめている。それがヘルミーネとの出会いの後から原作になく明るい印象にかわっていく。ヘルミーネとショッピングを楽しんだり、ダンスのレッスンを受ける場面などはメロドラマ的な甘さに満ちていて、ハリーの深刻さが影をひそめてしまう。しかもヘルミーネ役のドミニク・サンダのとても若い清楚な美しさに魅せられてしまった。私としてはこのあたりの場面では、「荒野のおおかみ」に感じられた暗さや悲壮感よりも、むしろ前述した「郷愁」「車輪の下」あたりの感傷的な甘美さに満ちていると思った(この映画を観るまでは、私は「荒野のおおかみ」と、「郷愁」「車輪の下」等の作品をまったく別のものと捉え、両者の共通項としてオカルト的な「デミアン」を位置付けていた。ところが今回「荒野のおおかみ」がヘッセの混沌とした精神ばかりでなく、いかに憧れと、甘美に満ちた叙情的作品であるかを認識した)。

 「荒野のおおかみの論文」はアニメ、魔術劇場のイメージはビデオを駆使した電子映像で表現している。とくに魔術劇場ではウォルト・ディズニー的なファンタジーになってしまい、フュージョン的な音楽も相まって、明るくなり過ぎたきらいがある。もっと時代がかったもやけた雰囲気が欲しいように思ったが、この点は賛否両論であろう。魔術劇場に到るまでの流れからしてみるとかなり違和感があった。

 私の原作から受けたイメージとの食い違いは大きかった。ヘッセ自身の文明風刺や理想主義の観念がまったく抜け落ちている。特異なストーリーの上辺だけをさらって、映像の娯楽に走りすぎているのではないか ―― しかし、こう思う自分自身こそ魔術劇場においてハリー・ハラーの二の舞になっている。映像のユーモアを解していないのではないかと心によぎる。やがて、死刑執行の場面、最後に罰として一同の前に高笑いの的とされるのは、ハリーではなく、余りに観念的に見入っていた自分自身なのであった。

※文中の引用文は高橋健二訳「ヘッセ全集」新潮社版による
※ヘッセ評伝としては高橋健二著「ヘルマン・ヘッセ ―危機の詩人―」
 新潮選書を参考にした。 



映画「ステッペンウルフ」予告編
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