ドヴォルザーク:弦楽セレナーデ [管弦楽曲]

最近は声楽や合唱に関係した記事ばかりになってしまったので、今回は弦楽合奏の名曲・・・ドヴォルザークの弦楽セレナーデを取り上げる。
(今朝の早朝ウォーキングでもウォークマンのプレイリスト登録した3つの演奏を改めて聴き比べていた)


ボクはアントニン・ドヴォルザーク(1841-1901)の曲は苦手で敬遠しがちである。東欧・ロシアの国民楽派と呼ばれる音楽はあまり好きではない。
とくにドヴォルザークは土臭いというか、泥臭いイメージが先行して、ついていけないのだ。
アマオケではとくに管楽器奏者に人気の高い交響曲第8番やスラヴ舞曲集にしても、室内楽では弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」やピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」にしても、泥臭いメロディーや土俗的なリズムが鼻について苦手なのである。

と言いつつも、実のところボクの偏見であり、聴かず嫌いであることはわかっている。

泥臭いと言いながらも「演歌」のようなメロディーがふんだんに散りばめられた、交響曲中でも最もミーハーな交響曲第9番「新世界より」は大好きなのである。
「新世界」は第1回国民文化祭の合同オーケストラに参加してスロバキアの指揮者オンドレイ・レナルト氏に振ってもらった演奏経験がある。ただ「外タレ」に振ってもらったというだけでボクは有頂天に感動して「新世界」が好きになってしまった。
この曲ほど能天気に楽しんで弾ける曲はなかなかないと思う。

もう1曲「弦楽セレナーデ」もドヴォルザークのなかでは例外的に大好きな曲である。
ボクはこの曲はについては有志と遊び弾きして難しかったというくらいの演奏経験しかない。
ドヴォルザークが1875年にブラームスが審査員を務めた作曲賞を受賞し、尊敬するブラームスに認められた直後に2週間足らずで書き上げた曲だといわれている。それだけに前向きな喜びや希望を感じさせる作風に思える。
ドヴォルザークのなかでも比較的に泥臭さが少なく、洗練された美しさを湛えた曲だと思う。弦楽合奏の究極の美しさを現している。
甘美でありながらも、同じく有名なチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」ほどは甘ったるくないところもいい。

             *     *     *

「弦楽セレナーデ」は実演はアマチュア弦楽合奏の危うい演奏しか聴いたことがない。アンサンブルの難しい曲なのだ。

CDではメジャー指揮者+メジャーオーケストラや東欧系演奏団体による演奏が一般的かもしれないが、ボクが聴いている3枚はいずれも民族色よりもアンサンブル偏重でちょっと異色の演奏かもしれない。 

(1)http://www.arkivmusic.com/classical/album.jsp?album_id=146800[クリストファー・ホグウッド指揮
  ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
   ・ドヴォルザーク:管楽セレナード ニ短調op.44
   ・ドヴォルザーク:弦楽セレナード ホ長調op.22 ]


(2)http://www.hmv.co.jp/product/detail/1997616[長岡京室内アンサンブル(音楽監督: 森悠子) 
   ボヘミアからの風
   ・スーク:弦楽セレナード 変ホ長調 作品6
   ・ドヴォルザーク:弦楽セレナード ホ長調 作品22
   ≪ボーナスCD≫
   ・ヴィヴァルディ: 協奏曲集作品8「四季」
   ・ヴィヴァルディ: フルート協奏曲「海の嵐」]

(3)オルフェウス室内管弦楽団
   ・チャイコフスキー:弦楽セレナード ハ長調op.48
   ・ドヴォルザーク:弦楽セレナード ホ長調op.22
   ・ヴォーン=ウィリアムズ:グリーンスリーヴズによる幻想曲    



(1)のホグウッドは1970~80年代にピリオド(古楽器)演奏の雄として大活躍した人で、エンシェント室内管弦楽団とのモーツァルト交響曲全曲録音で清新な演奏を聴かせていた。もともとはネヴィル・マリナー指揮アカデミー室内管弦楽団のメンバーでチェンバロ奏者/校訂スタッフでもあった。
当時は古楽畑からモダンオケ・・・ロンドンフィルを振ってのドヴォルザークは意外な組み合わせであった。
今は入手困難なCDのようであるが、ボクはこのCDは名演奏だと思う。フルオケの弦セクションで人数は多いが、厚ぼったくならずアンサンブルは緻密で、しかも「弦」が豊かで、濃い演奏である。1stヴァイオリンが微妙にピッチを上ずらせて「濃厚感」を漂わしている。テンポの緩急、抑揚、そしてスリリングで、弦楽合奏の美しさが最高であると思う。


(2)の長岡京室内アンサンブルは指揮者なしの小編成アンサンブルによる演奏である。
ボクが一度だけ長岡京室内アンサンブルのコンサートに行ったときは、ヴァイオリン:7、ビオラ:3、チェロ:2、コントラバス:1の編成で、チャイコ弦セレやモーツァルト「アイネク」などを聴いた。
このCDは、ボクが所属していたアマオケ「東京ロイヤルフィル」の代表であった西脇義訓氏が本職はレコーディングプロデューサーで、フィリップスレーベル退職後に独立された fine NFレーベル で制作・販売している。CD・SACD兼用のCDでたいへん高価であるが入手しやすい。
西脇氏は東京ロイヤルフィルのときもアマオケなりに理想のハーモニーを追求していた方だけあって、内外のプロ演奏家とのパイプを生かして、JAO(日本アマチュアオーケストラ連盟)のキャンプ等でも森悠子氏ら著名演奏家を招いて啓蒙活動を繰り広げておられる(参考:JAO機関紙2011年国民文化祭関係記事)。

長岡京室内アンサンブルの音楽監督・ヴァイオリニストの森悠子氏は故齋藤秀雄氏の弟子で長く海外でアンサンブル研鑽を積んでこられた方で、アンサンブルのスペシャリストである。「合わせる」方法として「聴いて」「見て」合わせるというだけではなく、武道のような「間合い」や「気」などを取り入れて指導されている。
例えば、メンバー全員をあえて互いに見えないように立たせて、集団のなかで「気」を感じたり、「呼吸」を合わせることによって、「合わせる」といったトレーニングを積んでいる。
長岡京室内アンサンブルは国内の新進気鋭奏者を集めたアンサンブルであるが、森悠子氏のもとで精緻なアンサンブルと純度の高いハーモニーを追求している。
この演奏のハーモニーの透明感は他では味わえないと思う。ピリオドアプローチを取り入れた演奏でところどころノンビブラートでふわっとハーモニーを響かして美しい。「透明感」というと、言い方をかえれば少人数の薄さでもあるが、微妙な間合いや揺らぎも自然で流れるような演奏である。


(3)のオルフェウス室内管弦楽団も指揮者なしのアンサンブルで、アメリカ在住のハイレベルの演奏家によって、アンサンブルの極限を追求してきた団体である。
こちらは長岡京の「集団型」とは違って、メンバー個々の演奏能力を結集してアンサンブルを追及しているように思う。
ところどころ「合わせる」ことが目的になり過ぎているようで、発音のアクセントがきつい(音のエッジを立て過ぎている)のが気になる。自発的で上手い演奏であるが、(1)(2)に比べると音楽性が薄いように思う。

             *     *     *

YouTube動画は、ヤロスラフ・クレチェク指揮/カペラ・イストロポリターナによる演奏が、全曲アップされていたので貼り付けた。音源はNAXOSのCDなので廉価で入手しやすい。
スタンダードというか穏やかで「民族的」な演奏だと思うが、ゆったりとし過ぎていて少々土臭さが鼻につく。

ちなみに動画の絵は、スペインのキュビズムの画家ファン・グリス
(Juan Gris、1887-1927)による。


1.Moderato


2.Tempo di Valse


3.Scherzo:Vivace


4.Larghetto


5.Finale:Allegro Vivace
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ジョスカン・デ・プレ:ミサ曲「パンジェ・リングァ」 [声楽曲]



  http://www.hmv.co.jp/product/detail/332614[ジョスカン・デ・プレ
   ・ミサ曲「パンジェ・リングァ」(舌もて語らしめよ)
   ・ミサ曲「ラ・ソ・ファ・レ・ミ」
    ピーター・フィリップ指揮 タリス・スコラーズ]


ジョスカン・デ・プレ(1440?-1521)はフランス北部あたりの出身で、ルネスサンス時代のフランドル楽派とよばれる作曲家・声楽家である。レオナルド・ダ・ヴィンチと親交があったともいわれている。
はるかバロック音楽以前、ヴィヴァルディやJ.S.バッハより200年以上も前である。
いわゆる Early classical music のジャンルで、ボクはこの曲も含めてCD4作品くらいしか聴いてないので、生半可な知識しか持っていない。
ジョスカン・デ・プレはフランスやイタリアで宮廷や教会で活躍していて、当時の最高の作曲家と称されていた。
フランドル楽派としては、ギヨーム・デュファイ(1400-1474)やヨハネス・オケゲム(1410-1497)の系譜の大作曲家であったといわれている(いずれこのあたりを聴き深めていくうえで関わってくる作曲家だろう)。

ミサ曲「パンジェ・リングァ」はジョスカン作曲の名曲として、合唱作品、宗教音楽として親しまれている。4声のア・カペラの合唱曲である。

  Kyrie eleison  憐れみの賛歌
  Gloria in excelsis  栄光の賛歌
  Credo  信仰宣言
  Sanctus  感謝の賛歌
  Agnus Dei  平和の賛歌

の5曲で構成されているが、この曲のモチーフであるグレゴリオ聖歌"Pange Lingua"(邦題「舌もて語らしめよ」あるいは「声をかぎりに」)がこのCDの冒頭で歌われている。

グレゴリオ聖歌は9世紀以降に教会の典礼音楽として、無伴奏・単声の聖歌として伝承・発展してきたといわれる。ボクの素人主観としてはお経のようにも聴こえる。
グレゴリオ聖歌は、教会旋法といって12音よりも少ない音階による単声音楽ながらも、その後のポリフォニー(多声音楽)の発展に寄与してきたといわれる。
1つは分散和音的に、あるいは曲によっては離れた音の高低が二声の進行のように聴こえたり、教会の残響で和声的に聴こえたり、この曲のようにポリフォニー音楽の素材としても扱われてきたりと、影響したのであろう。

ミサ曲「パンジェ・リングァ」は、5曲ともグレゴリオ聖歌"Pange Lingua"を展開したといわれているが、ボクには1曲目の"Pange Lingua"を展開したKyrieをモチーフに、残り4曲が連なっているように聴こえる。


イギリスのヴォーカルグループ「タリス・スコラーズ」は総勢8名ほどで、女性ソプラノ、カウンターテナー、テノール、バスの4声合唱で演奏している。

この演奏のお奨めは「純度」の高さである。

編成が大きくなったり、調性的に発展するにしたがい、音楽は複雑になって(それだけに醍醐味が増し、面白くもなるが)、純粋な響きから遠のいていると思う。
現在聴いているたいがいの音楽では、ハーモニーの広い「誤差範囲」を、幅広いビブラートや人数(豊かな倍音)による分厚い響き(揺らぎ)や音色でカバーしているので、それを音響的には「美しい」と感じている。
それに慣らされた耳には十分ではあるが、たまにはあっさり・さっぱりとした「基本」に立ち帰りたいと思う。
だからといってグレゴリオ聖歌ではあまりに禁欲的過ぎて楽しめない。ちょうどよいところが、このルネスサンスのシンプルな多声曲である。

この曲に限らず、タリス・スコラーズはビブラートを極力抑えて、少人数によるア・カペラ合唱であることで、濁りの少ない「純度」の高いハーモニーを聴かせている。
ちなみに同じくルネスサンス音楽でピエール・ド・ラ=リューのレクイエムを歌ったホルテン指揮アルス・ノヴァのア・カペラ合唱のCDもたまに聴いているが、タリス・スコラーズほどにはビブラートが抑制されていない。アルス・ノヴァは「ふつう」の合唱よりははるかに透明感はあるが、ビブラートの箇所に濁りが感じられるので「純度」の点で物足りない。
やはり「純度」の高さはタリス・スコラーズならではと思う。

平均律に対して純正調のハーモニー(に近い)ということもあるだろうが、このあたりの議論には自信がないのでさらっと流しておこう。

この曲に限らずタリス・スコラーズの演奏を聴いていると、心が洗われるとか、癒されるとか気分的なものにとどまらず、もっと感覚的に耳が澄んでいくように思う。


YouTube動画では、タリス・スコラーズの演奏ではないが、初めにグレゴリオ聖歌"Pange Lingua"を紹介する。


グレゴリオ聖歌"Pange Lingua"


ここからがジョスカン・デ・プレ作曲 ミサ曲「パンジェ・リングァ」で、タリス・スコラーズの演奏である。


ミサ曲「パンジェ・リングァ」 Kyrie、Gloria


ミサ曲「パンジェ・リングァ」 Credo


ミサ曲「パンジェ・リングァ」 sanctus & benedictus


ミサ曲「パンジェ・リングァ」 agnus dei I,II,III



             *     *     *


ボクはヴァイオリン演奏やアマオケプレーヤーとして音楽を楽しみながらも、自身の発声は苦手なのでもともとは声楽や合唱には(好きな作曲家からの派生以外では)興味がなかった。
というか、たいがいはゴージャスなオーケストラ曲やシックなピアノ曲あたりからクラシック音楽にハマっていくものだと思う。

そんなボクが声楽や合唱を好んで聴くようになったのには2つの理由がある。

1つはヴァイオリン演奏するうえでの「歌」(カンタービレ)。

レッスンでもオケでももっと歌うようにと要求される。「歌」とは何か、基本は人間の発声する音楽の抑揚であり、自分で歌うのが苦手であれば、せめて「歌」を聴いて味わえるようになりたいと、ドイツ歌曲(リート)ならシューベルト、フランス歌曲(メロディ)ならフォーレを好んで聴くようになった。
それと、楽器でも歌うように演奏することで、より音程がよくなっていくとも言われたことがあった。淡々と楽譜どおりに弾くだけでは、自分のテキトーなクセのある音程でなぞってしまうだけであったが、「歌」を意識することによって、旋律線のなかで音程をとれるようになると思う。

もう1つはハーモニー。

アマオケ「東京ロイヤルフィル」に入ってからであるが、それまでのアマオケ(の指導者)と違って、合奏の音階練習に加えて、ハーモニーの基本練習を徹底していたことである。
とくに指揮者の要請があったわけではないが、メンバーによる自主的なウォーミングアップとして簡単な4声のカデンツ(終止形・・・単純な和音の進行・終止)をノンビブラートで練習していた。
トレーナーを兼ねたメンバー以外の団員も、「宿題」として持ち回りでハーモニーを作ってきたり、指揮台に立ってハーモニーを聴いたりした。ボクも自分なりに解決してないような変なカデンツを作ってきて、みんなの前で棒を振ったこともあった。
カデンツの合奏中は、ボクは自分流の「正しい」(と思い込んだ)音程で弾くのではなくて、全体のハーモニーを聴き(感じ)ながら臨機応変に音程を合わせる(溶かし込む)ということを経験した。
この経験がより「純度」の高いハーモニーへの志向となって、有志の間でもタリス・スコラーズのような古楽合唱の嗜好へ行き着いた。あるいは(ボクは中途半端にかじる程度に終わったが)「分離唱」という音感トレーニングの方法論を知ることもできた。
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職場の上司の演奏会案内(その2) [声楽曲]

また職場の上司が朝礼で、いきなり次の日曜日の演奏会の案内をして、ご自由にお取りくださいとチラシと入場整理券を置いていった。
上司の所属するオーケストラと合唱団の合同演奏会である。




宇治朝霧コーラス・カンマーフィルハーモニー京都 合同演奏会

Ⅰ 合唱 ステージ
 アヴェ・マリア(アルカデルト、カッチーニ、グノー)
 アヴェ・ヴェルム(フォーレ)
 アヴェ・ヴェルム・コルプス(プーランク)

Ⅱ オーケストラ ステージ
 シューベルト:「ロザムンデ」序曲
 R.シュトラウス:13管楽器のためのセレナード

Ⅲ ペルコレージ:「スターバト・マーテル」


指 揮  袖岡 浩平
管弦楽  カンマーフィルハーモニー京都
合 唱  宇治朝霧コーラス

2010年 9月 12日(日)
京都市呉竹文化センターホール(近鉄、京阪「丹波橋駅」西口前)

2:00 開演
入場無料


上司が出演するオーケストラの演奏会は、今までも何度もお誘いを受けながら聴きに行けなかったが、今回こそ聴きに行こうと思う。

合唱団との合同演奏は、ボクも東京ロイヤルフィル時代に3回ほど経験した。フォーレのレクィエム、ベートーヴェンのミサ曲、それと故 伴有雄先生の音楽葬で宇野功芳氏指揮のモーツァルトのレクイエム抜粋であった。
いつもオーケストラ曲ばかり演奏していると、たまに合唱や声楽と合わせるのは難しい面もあったが楽しいものであった。

上司の所属しているオーケストラの指揮者は、オーケストラと合唱団の両方の指導をされている方みたいなので、このようなマッチングになったのであろう。
宗教音楽を中心としたとても品のよいプログラムなので楽しみである。



≪追記 2010.9.12≫

行ってきました。

合唱は女声合唱でいわゆるママさんコーラスでした。
プーランクやフォーレなど和声的・ポリフォニックな曲も頑張っていたけれど、やっぱりグノーやカッチーニ(実はヴァヴィロフ作)のような旋律的な曲が、皆さん楽しそうに歌っておられて聴きやすかったです。

メイン曲のペルコレージは、オーケストラは弦楽合奏だけだったので、間にはさんだR.シュトラウスとシューベルトは管打楽器の出番を確保するための選曲だったようです。
R.シュトラウスの13管楽器のセレナードは雄大な曲想でしたが、どうしてもこの編成を聴いているとモーツァルトのセレナードを聴きたくなりました。
シューベルトでは唯一オケのフル編成を堪能しました。
カンマーフィルというだけあって比較的に小編成のオケだったので、ボクがかつて在籍していた「東京ロイヤルフィル」を思い出しました。管楽器に比べて高弦が薄かったのが物足りなかったです。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ(1710-1736)はJ.S.バッハと同時代のイタリアの作曲家で、「スターバト・マーテル」は代表的な宗教楽曲です。
はじめて聴く曲でしたが、バッハの「マタイ受難曲」のような荘重な曲でした。
合唱も気合いが入っており、ソプラノ・アルトのソリストの美しい歌唱に聴き惚れました。
とくにフーガの楽章が2つあって、弦楽合奏も合唱も力強く盛り上がりました。


それほどレベルの高いアマチュアではないけれど、ご年配の奏者が頑張って弾いておられる姿が励みになりました。ちょっとしたアンサンブルの綻びがボクにはかえって生々しくて、自分がやっていたときと同じような親近感を抱かせました。
久しぶりにオケで弾いてみたい気持ちに駆られました。


ちなみにペルコレージの「スターバト・マーテル」は、合唱のないピリオド演奏版ですがこんな曲です。


Pergolesi: Stabat Mater (part 1)


Pergolesi: Stabat Mater (part 2)


Pergolesi: Stabat Mater (part 3)


Pergolesi: Stabat Mater (part 4)


Pergolesi: Stabat Mater (part 5)

クリストフ・ルセ指揮 ル・タラン・リリク
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グレツキ:交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」 [交響曲]

昨晩というか、すでに今日であったが、テレーマン指揮ウィーン・フィルのベートーヴェンがテレビで放送されているのを観ながら、いろいろあって夜更かししてしまった。
それでも今朝は5時に目覚まし時計で起きて休日の早朝ウォーキングに行った。
もともとは6時に起きてウォーキングしていたが、この夏は朝から暑いので5時半起きに繰り上げた。それでもまだ暑いので今朝は5時に起きた。
起きたときは少し薄暗くて、睡眠不足にもかかわらず快調にハイペースで目的地の運動公園まで歩いた。
この「行き」の道すがら、そして公園のベンチで休憩中に、グレツキの交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」を聴いた。


ヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933-2010)はポーランドの作曲家である。
小学校の教員であったが、一念発起して音楽学校に入り直して作曲家になった。いっときはパリでも勉強し音楽学校の校長にまでなったが、80年代まで世界的には目立った作曲家ではなかった。
ラジカルな「前衛音楽」が一段落して、聴きやすい現代音楽が求められるようになってから、グレツキは脚光を浴びるようになった。

この交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」(1976)も、ここで紹介するディヴィッド・ジンマン指揮ロンドン・シンフォニエッタのCDが1992年に発売されるや、クラシックの現代音楽作品(矛盾した表現だが)としては異例の大ヒットになって有名になった。

ボクも10数年前に東梅田の東通り商店街のDISC・PIERの店頭の試聴コーナーで気に入って衝動買いしたCDである。




http://www.hmv.co.jp/product/detail/58897[
グレツキ:交響曲第3番作品36「悲歌のシンフォニー」
ディヴィッド・ジンマン指揮 ロンドン・シンフォニエッタ
ドーン・アップショウ(ソプラノ)]



3つの楽章すべてがLentoである。古典的な交響曲のようにAllegro-Adagio-(Menuetto/Scherzo)-Prestoであったり、多少ともその形式は踏んだ「急-緩-急」の構成ではなく、「緩-緩-緩」である。
現代音楽のことはよくわからないが、ミニマリズムとかホーリーミニマリズムと呼ばれるスタイルの代表的な楽曲といわれている。
ミニマリズムというのは最小の動きを繰り返すような表現方法で、ホーリーミニマリズムというと、そこに宗教的・神秘的な意味合いが付加されるそうだ。


第1楽章 LENTO-SOSTENUTO TRANQUILLO MA CANTABILE

コントラバスのほとんど聴こえないくらいの弱奏による24小節の短調の旋律で始まり、この旋律がカノン(いわゆる輪唱の形式)で徐々に、しかも緩やかに弦楽器主体で高音楽器に受け渡され、分厚い和声に発展しながら繰り返されクレッシェンドされて盛り上がっていく。
そのピークで「聖十字架修道院の哀歌」(息子を思う母親の祈りの歌)が劇的にソプラノ独唱される。
その後は逆に分厚い和声の強奏から元のコントラバスだけの旋律まで、徐々にデクレッシェンドしていく。
独唱をはさんだカノンの延々とした「繰り返し」に意識が薄らいでいくような、ラリってしまいそうな効果があるいっぽう、有名なバーバーの「弦楽のためのアダージォ」のようにストイックで悲痛な曲想である。


    第1楽章(1/3)
    ディヴィッド・ジンマン指揮 ロンドン・シンフォニエッタ
    ドーン・アップショウ(ソプラノ)


    第1楽章(2/3)


    第1楽章(3/3)


第2楽章 LENTO ELARGO-TRANQUILLISSIMO

陽光に揺らめいた波間のような短い長調の繰り返しの旋律の前奏の後で、暗いソプラノ独唱が始まる。
独唱が強く盛り上がった合間にも前奏と同じ明るい旋律が繰り返されるが、やがて暗い独唱で悲痛に終わる。
ナチス・ドイツに囚われた18歳の女性が独房の壁に書き残した祈りの言葉であるらしい。

  お母さま、どうか泣かないでください。
  天のいと清らかな女王さま、
  どうかいつもわたしをたすけてくださるよう。
  アヴェ・マリア
  (同CDの歌詞訳より WARNER MUSIC JAPAN INC.)


    第2楽章 
    ディヴィッド・ジンマン指揮 ロンドン・シンフォニエッタ
    ドーン・アップショウ(ソプラノ)


第3楽章 LENTO-CANTABILE-SEMPLICE

暗く揺らめく旋律が伴奏音形として繰り返される上に、悲しげなソプラノ独唱が重なる。
ここで歌われるのはポーランド民謡であるが、年老いた母親が失った息子を嘆き悲しみ、祈りを捧げる歌である。


    第3楽章(途中から) 
    アントニ・ヴィト指揮 ポーランド国立放送交響楽団
    ゾフィア・キラノヴィチ(ソプラノ)
    (ジンマン盤YouTube動画はこちら


交響曲第3番「悲歌のシンフォニー」は全楽章を通してゆったりとした「繰り返し」の穏やかなメロディーが基調になっているので、ヒーリングの曲としても愛されている。
また戦争や弾圧を背景にした「悲歌」を、強いインパクトで悲劇的に伝えるのではなく、気の遠くなるような穏やかさのなかで淡々と歌い上げているところに、じわじわっと伝わってくるような感動があると思う。


紹介CDおよびYouTube動画の第1/2楽章のジンマン盤は、ハーモニーを美しく聴かせる指揮者なので、ロンドン・シンフォニエッタの揺らいだ旋律の(不協和音も混じったような)響きが美しい。
アップショウの「歌い」過ぎない抑えた清楚なソプラノも美しい。

YouTube動画の第3楽章のヴィト盤はオーケストラがジンマン盤と比べると粗削りに聴こえる。キラノヴィチはちょっと声が太く、歌い過ぎているように思う。



≪追記 '10.11.20≫

作曲家ヘンリク・ミコワイ・グレツキ氏が11月12日に76歳で逝去。
シュリンパーさんの記事で初めて知りました。
合掌
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